八つ目にして

 
やうやく許容範囲内におさまるものができた。
と思つてよくよく見たら。
 
太平洋のやうに広いやつがれの許容範囲からもはみ出るやうな部分もちらほら。
むう、やはり結びマスターへの道は遠いのう。
 
写真は撮つたのだが、どうもうまく撮れず、やつがれの腕では補正しきれなかつたのでまた後ほど。
 
それにしても楽しすぎるぜ、結び。
 
自分を作つたものは、あまり「ミサンガ」とか「プロミスリング」とは呼びたくない。
といふのも、別段なにか願掛けをしてゐるわけではないし、そもそも「願掛け」自体があまり好きではないからなのだが。
 
しかし、結んでゐると、なぜ「ミサンガ」や「プロミスリング」をマクラメで作るのか、わかるやうな気がしてくる。
 
すなはち「結ぶ」からだ。
 
「縁を結ぶの神さんと」といふ歌の文句ではないが、「結ぶ」といふ行為またはことばにはどこかしら「望みを果たす」「思ひを通じさせる」ことを想起させるものがある。忍者がよくやる片手の人差し指をもう片方の手で握り握つた手の人差し指をたてるあの仕草からもどこか「結ぶ」といつた印象を受けるし、「そもそも九字の真言とは」ではないが、九字の印はおそらく「結ぶ」のだつたと記憶する。
英語の「knot」にしてもなにか結びつきの強いものを表す時に使ふやうに思ふ。
その他の言語・地域ではどうだかわからないので甚だ貧弱な論拠ではあるわけだが。
 
ま、でもそんなわけで「ミサンガ」や「プロミスリング」は編んだものではいけないのだと思ふ。やはり結んだものでないとね。
 
さらにそんなわけで、時折「マクラメ編み」といふ表記を見かけるし、やつがれ自身も仕方なくさう書くこともあるが、やはり「編み」はまちがつてゐると思ふ。マクラメはやつぱり「結ぶ」。でも「マクラメ結び」は妙だよね。
レースの一種であると考へれば「マクラメレース」といふ呼び方もあるかとは思ふが……うーん、なんだか人口に膾炙しないな、この語感。