今年の夏はサンダル履きで

 
くつ下を編んでゐてひとつだけかなしいことがある。
ほかの人に見てもらへないといふことだ。
 
Anna Zilboorgはさう云つてミトン編みに目覚めたらしいが(Magnificent Mittensにそんなやうなことが書いてある)、でもくつ下編みとミトン編みはやはりちがふやうな気がする。
 
そんなわけで、この夏は自分で編んだくつ下とサンダルで外出しやうと思つたのだが。
 
さて、ではどんなサンダルがいいだらうか。
 
ビルケンシュトックは米国のくつ下編みのweblogなんかにもよく出てくるが、しかし、如何せん高価だ。
さらに、どうも踵部分にもストラップなりなんなりがないと不安な気がする。
そもそもやつがれ、サンダルとかミュールとかエスパドリーユとか履かないし、かうした履物は「闘へない履物」としてすこし見下してゐるきらいがある。
「闘へない履物」とは満員の通勤電車の中で革靴とはりあつていけないやうな履物のことだ。あのかたくておもたい革靴に押されたり踏まれたりしてもびくともしない、逆に押し返したり踏み返したりできるやうな靴、それがやつがれのもとめる「闘へる履物」である。
 
かつてなんの雑誌であつたか、神足裕司が若き企業家を訪問した感想をコラムにしてゐるものがあつて、ある時若い女性の社長に会ひに行つた時の記事が掲載されてゐた。
若い女性だけあつて、足下はミュール(当時流行つてゐた)だつた、さすがである、みたやうなことを神足裕司は書いてゐた。
 
ああ、な〜んにもわかつてないなあ。
ミュールを履いてゐるといふことは、闘ふ意志のないといふことを指す。
神足裕司は通勤なんかしないから、そこんとこまつたく理解してゐないのだ。
と、その時は思つたが。
きつとあの女性は闘ふ必要がないのだらう。通勤時には車でお迎へとかそんなやうなのがあるのにちがひない。
ま、えうはミュールなんてなあさういふ「闘ふ必要のない」人向けの履物なのだ。
 
まあなんて偏見、とも思ふが、要はサンダル系の履物に興味がないのである。
なのに今、そのサンダル系の履物を求めてゐる。
すごいな、くつ下編み。
 
まあそんなわけで、しばらくは理想のサンダル探しをするつもり。
とりあへず「闘ふ必要のない」時に履かう。